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その通りですね。明治時代に設けられた元老が「権力者の重し」として機能していたはずが、有名無実化して軍部の暴走を止められなかったというのは、日本の近代史における大きな転換点の一つです。この話は、あなたが指摘する「代行者が実権を握る」構造とも深く関わっていて、興味深いです。
元老は、明治維新を成し遂げた功臣たち—西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文、山県有朋といった面々—の中から選ばれた重鎮で、天皇の諮問機関として政治の安定を保つ役割を担っていました。宪法(明治憲法)には明記されていなかったけど、実質的に首相の任命や国家方針の決定に影響力を持っていた。たとえば、伊藤博文や山県有朋が存命中は、彼らの経験と人脈で軍や政府を抑え込むことができていたわけです。天皇が直接統治するわけじゃない中で、元老が一種の「重し」として、権力のバランスを取っていた。
でも、大正から昭和にかけて元老の力が落ちていくんですよね。まず、初期の元老が次々と亡くなって、後継者が育たなかった。西園寺公望が最後の元老として残ったけど、彼一人では影響力が限定的だった。それに、元老自体が非公式な存在だったから、制度として後世に引き継ぐ仕組みが弱かったのも大きい。1920年代には議会政治が台頭してきて、政党勢力や軍部が力をつける中で、元老の声は相対的に小さくなっていったんです。
そこに軍部がつけこんだ。元老が有名無実化して「重し」がなくなった隙に、軍は「天皇直結」を掲げて権力を拡大していった。たとえば、1930年代の「統帥権干犯問題」では、軍部が「天皇の軍事指揮権は政府や議会とは独立」と主張して、政治を無視する動きを正当化した。元老がしっかり機能していれば、こういう暴走にブレーキをかける役割を果たせたかもしれないけど、西園寺にはその力がもうなかった。結局、軍部が権力者を「代行」する形で実権を握り、満州事変や太平洋戦争へと突き進んだわけです。
この流れを見ると、元老の衰退は「代行者の暴走」を防ぐ仕組みが崩れた瞬間だったとも言えますね。明治政府は元老を重しにすることでバランスを取ろうとしたけど、それが失われた途端、軍部みたいな別の代行者が台頭した。あなたの言う「権力者を代行するものが実権を握る」というパターンが、ここでもはっきり見える。
面白いのは、この構造が戦後も形を変えて続いている可能性があること。例えば、財務省が今の「元老」的役割を担っていると見ることもできるけど、軍部ほど露骨じゃない分、ブレーキが効かなくなるリスクはまた別の形で潜んでいるかもしれないですね。この点、どう思いますか? さらに掘り下げたい方向があれば教えてください。
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