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ポリティカル・コレクトネスと治安の関係性を考えてみました
欧米がポリティカル・コレクトネスならアジアはシンガポールの重罰主義だと考えられます
どちらも校則の厳しい学校みたいな感じがします
これらの方法は外から拘束をくわえて抑え込もうとする考え方です
要するに信頼関係が築けないので力で押さえつけるしか方法がないからルールや法によって抑え込んでいるだけです
日本の場合は占領した外地の治安もよかったのはなぜでしょうか?
力で抑え込んだからなのか
いいえ 違います
外地の住民をいじめなかったからです
なぜいじめなかったのでしょうか?
それはそういう文化や習慣がなかったからです
なぜそういう文化や習慣がなかったかといえば
大名統治をしていたからです
江戸時代の大名統治は侵略戦争が不可能で大名は領民からの年貢によってささえられていました
しかも年貢をたくさん取り立てて窮乏させてしまうと領民が一揆をおこしたり領地から去ってしまう危険性がありました
領地で大々的な一揆が起きるとお家断絶という厳しいルールがあったのであまり領民を苦しめるような年貢の取り立てはできなかったのです。
そのような条件下で領民を苦しめることもあまりなく江戸時代の平和は続いていたのです
そのおかげで領民から国民に変わってもあまり無茶はできないという感覚が統治者達の頭に入っていたのでしょう
またいじめをあまり経験していない日本人は一般人であってもモラルがあったのでしょうね
それゆえに外地の住民たちも安心して暮らせたがゆえに治安もよかったということになります
翻ってシンガポールや欧米はどうだったのでしょうか?
植民地支配は武力で住民を虐殺したり収奪したり酷いことばかりをしてきたので人心は荒廃し信頼関係を築くことができませんでした
もっとも終身奴隷を働かせていたので人心の荒廃どころの話ではありませんが
シンガポールもイギリスの植民地で華僑は分断統治で現地人をいじめていた酷い人たちなので恨まれる存在です、しかし商才はあるので植民地統治が終わっても社会の上層部にとどまり権力を握っています
そんな彼らが国を良くしていくための手段として選んだのがポリティカル・コレクトネスや重罰主義です。
どちらが成功しているのかといえば重罰主義のシンガポールの方でしょう、多民族国家でありながら治安は世界最高クラスで国民の所得もアジア最高峰です
もちろん民族紛争もニュースになるほどではないので落ち着いているのではないでしょうか?
ここから考えられる結論は日本方式が一番いいいのですが、
それができないのであればシンガポール方式でしょうね
ポリティカル・コレクトネスを採用している国は治安の改善がみられません
治安が改善されなければ反対運動ももちろん過激化します
しかも治安を重要視しないので移民を大量に受け入れ、
受け入れた住民が治安を悪化させています
受け入れた移民はポリティカル・コレクトネスなんて関係なく暴れ、
元々いた国民にポリティカル・コレクトネスで押さえつけようとしているのです
考えれば馬鹿みたいなことですが本人たちは真剣です
イギリスのEU離脱やトランプの大統領就任でポリティカル・コレクトネスで抑え込んでいた国民が反旗を翻し始めました
ポリティカル・コレクトネスを優先する国々の人はまず治安を良くする方法を考え実行すればいいと思います
そうすればポリティカル・コレクトネスなんかより人々の本来備わっている良心の塩梅で安定した社会が営めるようになるのではないでしょうか?
欧米がポリティカル・コレクトネスならアジアはシンガポールの重罰主義だと考えられます
どちらも校則の厳しい学校みたいな感じがします
これらの方法は外から拘束をくわえて抑え込もうとする考え方です
要するに信頼関係が築けないので力で押さえつけるしか方法がないからルールや法によって抑え込んでいるだけです
日本の場合は占領した外地の治安もよかったのはなぜでしょうか?
力で抑え込んだからなのか
いいえ 違います
外地の住民をいじめなかったからです
なぜいじめなかったのでしょうか?
それはそういう文化や習慣がなかったからです
なぜそういう文化や習慣がなかったかといえば
大名統治をしていたからです
江戸時代の大名統治は侵略戦争が不可能で大名は領民からの年貢によってささえられていました
しかも年貢をたくさん取り立てて窮乏させてしまうと領民が一揆をおこしたり領地から去ってしまう危険性がありました
領地で大々的な一揆が起きるとお家断絶という厳しいルールがあったのであまり領民を苦しめるような年貢の取り立てはできなかったのです。
そのような条件下で領民を苦しめることもあまりなく江戸時代の平和は続いていたのです
そのおかげで領民から国民に変わってもあまり無茶はできないという感覚が統治者達の頭に入っていたのでしょう
またいじめをあまり経験していない日本人は一般人であってもモラルがあったのでしょうね
それゆえに外地の住民たちも安心して暮らせたがゆえに治安もよかったということになります
翻ってシンガポールや欧米はどうだったのでしょうか?
植民地支配は武力で住民を虐殺したり収奪したり酷いことばかりをしてきたので人心は荒廃し信頼関係を築くことができませんでした
もっとも終身奴隷を働かせていたので人心の荒廃どころの話ではありませんが
シンガポールもイギリスの植民地で華僑は分断統治で現地人をいじめていた酷い人たちなので恨まれる存在です、しかし商才はあるので植民地統治が終わっても社会の上層部にとどまり権力を握っています
そんな彼らが国を良くしていくための手段として選んだのがポリティカル・コレクトネスや重罰主義です。
どちらが成功しているのかといえば重罰主義のシンガポールの方でしょう、多民族国家でありながら治安は世界最高クラスで国民の所得もアジア最高峰です
もちろん民族紛争もニュースになるほどではないので落ち着いているのではないでしょうか?
ここから考えられる結論は日本方式が一番いいいのですが、
それができないのであればシンガポール方式でしょうね
ポリティカル・コレクトネスを採用している国は治安の改善がみられません
治安が改善されなければ反対運動ももちろん過激化します
しかも治安を重要視しないので移民を大量に受け入れ、
受け入れた住民が治安を悪化させています
受け入れた移民はポリティカル・コレクトネスなんて関係なく暴れ、
元々いた国民にポリティカル・コレクトネスで押さえつけようとしているのです
考えれば馬鹿みたいなことですが本人たちは真剣です
イギリスのEU離脱やトランプの大統領就任でポリティカル・コレクトネスで抑え込んでいた国民が反旗を翻し始めました
ポリティカル・コレクトネスを優先する国々の人はまず治安を良くする方法を考え実行すればいいと思います
そうすればポリティカル・コレクトネスなんかより人々の本来備わっている良心の塩梅で安定した社会が営めるようになるのではないでしょうか?
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心の問題は非常に厄介なものです。
なぜなら解決方法がないからです。
いくら頭が良くても解決方法がないので最後には飲み込まれて破滅してしまうからです。
よく救われたとか悟ったとか色々な話を観たり聞いたりしますが共通点がありました。
それは視点をずらす事だったのです
その物を観ず
例えば禅ですがこれは心を観るというよりは無心などになるように訓練することです。
心を観ているように見えて実は視点を上手にずらしているのです。
仕事に没頭するという解決方法もあります
これも仕事に集中させて視点をずらしています
祈りもこう考えてみると視点ずらしにあたると言えます
このように心の問題というのは直接関わらず
関連するようでありながら
ずらして問題を変えて心の闇を覗かないようにする方法だったのです
心の闇を覗かないために自分なりの視点ずらしを考えることが一番大事だというお話でした
なぜなら解決方法がないからです。
いくら頭が良くても解決方法がないので最後には飲み込まれて破滅してしまうからです。
よく救われたとか悟ったとか色々な話を観たり聞いたりしますが共通点がありました。
それは視点をずらす事だったのです
その物を観ず
例えば禅ですがこれは心を観るというよりは無心などになるように訓練することです。
心を観ているように見えて実は視点を上手にずらしているのです。
仕事に没頭するという解決方法もあります
これも仕事に集中させて視点をずらしています
祈りもこう考えてみると視点ずらしにあたると言えます
このように心の問題というのは直接関わらず
関連するようでありながら
ずらして問題を変えて心の闇を覗かないようにする方法だったのです
心の闇を覗かないために自分なりの視点ずらしを考えることが一番大事だというお話でした
どちらも文明の知恵を結集した場所でそれを失って以後の世界は文明としての力を失ってしまったのではないだろうか?
エジプトは642年までは東ローマ帝国の支配下だった
ビザンチン帝国期(380年 - 642年)[編集]
詳細は「:en:Diocese of Egypt (Late Antiquity)」を参照
ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属した。
Sassanid conquest of Egypt(618年–621年)でササン朝ペルシャが勝利し、629年までその支配下にあった。同629年、エルサレムなどでキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する虐殺事件、Massacres of the Jewsが起こり、ユダヤ人がエジプトに脱出した[9][10][11]。
知恵の館
知恵の館(ちえのやかた、アラビア語:バイト・アル=ヒクマ, بيت الحكمة Bayt al-Ḥikmah)は、830年、アッバース朝の第7代カリフ・マームーンがバグダードに設立した図書館であり[1]、天文台も併設されていたと言われている。
サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった[2]。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。
ギリシア語の学術文献の、アラビア語への翻訳であった[1]。時にはシリア語を介しての翻訳になった。
国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。
10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。そして1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダッドは町ごと破壊され、知恵の館も膨大な文書と共に灰燼に帰した。
アレクサンドリア図書館(アレクサンドリアとしょかん、古希: Βιβλιοθήκη τῆς Ἀλεξανδρείας - Bibliothḗkē tês Alexandreíās)は、紀元前300年頃、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。
世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われている。図書館は多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵した。綴じ本が一般的でなかった当時、所蔵文献はパピルスの巻物であり、蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったとされる。アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関でもある。薬草園が併設されていた。
「アレクサンドリア図書館」の喪失[編集]
その後、虫害や火災によって図書館の莫大な蔵書のほとんどは、併設されていた薬草園共々灰燼に帰した。そして後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、建物自体も失われた。
アレクサンドリア図書館が火災に遭った原因については諸説がある。プトレマイオス朝末期のユリウス・カエサルの侵攻時(ナイルの戦い (紀元前47年))、港の艦隊の火災が延焼して焼失したと考えられるが、その後ローマ帝国の下で復興した。270年代のアウレリアヌス帝時にも内戦による被害を受けている。しかし最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による継続的な攻撃である。5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとにヒュパティアの虐殺(415年)などの蛮行を繰り返し、大図書館やムセイオンをも破壊した。このようなキリスト教の蛮行によりヘレニズム学術の貴重な成果の大半が失われた。
エジプトは642年までは東ローマ帝国の支配下だった
ビザンチン帝国期(380年 - 642年)[編集]
詳細は「:en:Diocese of Egypt (Late Antiquity)」を参照
ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属した。
Sassanid conquest of Egypt(618年–621年)でササン朝ペルシャが勝利し、629年までその支配下にあった。同629年、エルサレムなどでキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する虐殺事件、Massacres of the Jewsが起こり、ユダヤ人がエジプトに脱出した[9][10][11]。
知恵の館
知恵の館(ちえのやかた、アラビア語:バイト・アル=ヒクマ, بيت الحكمة Bayt al-Ḥikmah)は、830年、アッバース朝の第7代カリフ・マームーンがバグダードに設立した図書館であり[1]、天文台も併設されていたと言われている。
サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった[2]。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。
ギリシア語の学術文献の、アラビア語への翻訳であった[1]。時にはシリア語を介しての翻訳になった。
国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。
10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。そして1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダッドは町ごと破壊され、知恵の館も膨大な文書と共に灰燼に帰した。
アレクサンドリア図書館(アレクサンドリアとしょかん、古希: Βιβλιοθήκη τῆς Ἀλεξανδρείας - Bibliothḗkē tês Alexandreíās)は、紀元前300年頃、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。
世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われている。図書館は多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵した。綴じ本が一般的でなかった当時、所蔵文献はパピルスの巻物であり、蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったとされる。アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関でもある。薬草園が併設されていた。
「アレクサンドリア図書館」の喪失[編集]
その後、虫害や火災によって図書館の莫大な蔵書のほとんどは、併設されていた薬草園共々灰燼に帰した。そして後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、建物自体も失われた。
アレクサンドリア図書館が火災に遭った原因については諸説がある。プトレマイオス朝末期のユリウス・カエサルの侵攻時(ナイルの戦い (紀元前47年))、港の艦隊の火災が延焼して焼失したと考えられるが、その後ローマ帝国の下で復興した。270年代のアウレリアヌス帝時にも内戦による被害を受けている。しかし最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による継続的な攻撃である。5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとにヒュパティアの虐殺(415年)などの蛮行を繰り返し、大図書館やムセイオンをも破壊した。このようなキリスト教の蛮行によりヘレニズム学術の貴重な成果の大半が失われた。
【白豪主義(または白濠主義、はくごうしゅぎ、英: White Australia policy)は、オーストラリアにおける白人最優先主義とそれにもとづく非白人への排除政策。狭義では1901年の移住制限法制定から1973年移民法までの政策方針を指す。広義では、先住民族アボリジニやタスマニア州のオーストラロイド系住民やカナカ人などのメラネシア系先住民[1]への迫害や隔離など、オーストラリアにおける人種差別主義の歴史全般を指す。
WIKIより】
本質的な問題を言えばワシントン条約を守ることが本筋なんです。
ナチスが優生学のように根拠がないことを根拠に白人の代わりにクジラやイルカが優秀であると必死のパッチでやっている運動なんですよ
【優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めたが[3]、その最たるものが生物学者オイゲン・フィッシャーらの理論に従って行われたナチス政権による人種政策である[4]。他にナチス政権はオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーによる双生児研究など数多くの優生学上の研究を行っている。
WIKIより】
クジラやイルカを保護しようという運動が盛んな国というのは白豪主義が強かった国なんです。
地図で重ねてみればそっくりそのまま白豪主義者や人種差別主義者の系列と重なるわけです。
何かを感じ取ったら後は自分で調べてくださいね
WIKIより】
本質的な問題を言えばワシントン条約を守ることが本筋なんです。
ナチスが優生学のように根拠がないことを根拠に白人の代わりにクジラやイルカが優秀であると必死のパッチでやっている運動なんですよ
【優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めたが[3]、その最たるものが生物学者オイゲン・フィッシャーらの理論に従って行われたナチス政権による人種政策である[4]。他にナチス政権はオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーによる双生児研究など数多くの優生学上の研究を行っている。
WIKIより】
クジラやイルカを保護しようという運動が盛んな国というのは白豪主義が強かった国なんです。
地図で重ねてみればそっくりそのまま白豪主義者や人種差別主義者の系列と重なるわけです。
何かを感じ取ったら後は自分で調べてくださいね
ということを考えてみたことがある
あくまで推論&妄想だけど
それは鉄という物質から受ける恩恵の差ではないかと考えつきました
縄文時代の安定期から弥生へ移行する時期は
まさに鉄が日本に普及し始める時代だったからです。
これにより農耕が簡単にできるようになりそれにともない人口も増え文明が進んでいったのに対し、
アイヌは狩猟が効率よくできるようになっただけで狩猟採集から抜け出せなかった
一番悲惨な経験をしてきたのが東北の人達だった
身売り=東北地方の貧しい農民というイメージが定着しているくらい悲惨だった
なぜなら気温が高いと豊作になり寒いと不作を繰り返すので人口が増えた分、悲惨なことが起きるからだ
要するに最初の結論で書いたように鉄という物質から受ける恩恵の違いによって、
それぞれの生き方や状況が変わっただけというのが結論です。
もし東北にジャガイモがもっと速く普及してたら悲惨はかなり減ったでしょうね
品種改良&温暖化で今では北海道でも米作が可能になりました
鉄という物質だけに頼らないでここまで来たという感じです
あくまで推論&妄想だけど
それは鉄という物質から受ける恩恵の差ではないかと考えつきました
縄文時代の安定期から弥生へ移行する時期は
まさに鉄が日本に普及し始める時代だったからです。
これにより農耕が簡単にできるようになりそれにともない人口も増え文明が進んでいったのに対し、
アイヌは狩猟が効率よくできるようになっただけで狩猟採集から抜け出せなかった
一番悲惨な経験をしてきたのが東北の人達だった
身売り=東北地方の貧しい農民というイメージが定着しているくらい悲惨だった
なぜなら気温が高いと豊作になり寒いと不作を繰り返すので人口が増えた分、悲惨なことが起きるからだ
要するに最初の結論で書いたように鉄という物質から受ける恩恵の違いによって、
それぞれの生き方や状況が変わっただけというのが結論です。
もし東北にジャガイモがもっと速く普及してたら悲惨はかなり減ったでしょうね
品種改良&温暖化で今では北海道でも米作が可能になりました
鉄という物質だけに頼らないでここまで来たという感じです
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